小栗康平 監督
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邑の映画会顧問

  邑の映画会に寄せて

プロフィール

1945年前橋市生まれ。早稲田大学第二文学部演劇専修卒。
81年の監督第一回作品「泥の河」はモスクワ映画祭銀賞、米アカデミー賞 外国語映画賞ノミネートなど高い評価を受け、以後、
84年「伽倻子のために」(仏ジョルジュ・サドゥール賞)、
90年「死の棘」(カンヌ映画 祭グランプリ・カンヌ1990/国際批評家連盟賞)、
96年の群馬県人口200万人記念映画「眠る男」(モントリオール映画祭審査委員特別 大賞)、
2005年「埋もれ木」(カンヌ映画祭特別上映作品)、
2015年には日仏合作映画「FOUJITA」発表。
過去五作品がDVD-BOOK 「小栗康平コレクション」として「FOUJITA」は別巻としてBlu-rayで、それぞれ駒草出版から発売されている。
BOOKには批評家、前田英樹との対談を併載。著書「時間をほどく」(朝日新聞社)「映画を見る眼」(NHK出版)「じっとしている唄」(白水社)などがある。

小栗康平オフィシャルサイト

Vol.1 映画を見よう

 いい映画を見ると心豊かになります。問題は、なにがいい映画か、ですね。
人によって、いい、悪いも分かれるでしょう。だとしたら、みんなで色々な映画を
見なくてはなりません。ところが現状では映画館は都市に集中していて、地域社会には
映画館そのものがありません。それなら自分たちで、というのがこの「邑の映画会」の
成り立ちです。
 この映画会は小学校で行われ始めた「映像教育」が出発点になっています。
 これは素晴らしいことです。子どもたちがテレビアニメやテレビゲームにだけ
振り回されていてはいけない、という切実な反省が背景にあってのことなのですから。
 だから、大人たちも子どもたちと一緒になって映画やテレビと向き合い直そうと
するのです。「邑の映画会」を続けていきましょう。

Vol.2 映画のうそと本当

 うそは泥棒の始まり、だから嘘をついてはいけない、と親から教えられました。
映画や小説、漫画も、うそといえばみんなうそ。「つくられたもの」ですね。でも
こうした「作品」のことを、私たちはうそ、とはいわないで、虚構、フィクションと
いって、それを楽しみ、あるいはそこからたくさんのことを考えたりする、きっかけ
にもしています。どこがうそで、どこが本当なのか、映画のうそと本当とはなにか、
と探っていくと、なかなかおもしろいですよ。

Vol.3 映画は、こころやさしいものです

 人を殺したり、殴ったりする映画やテレビドラマ、ゲームがいっぱいある。でも、
映画の原理はもともと、こころやさしいものです。人の姿を見つめる、それを画面で
とらえて感じ、考えるのですし、人が生きてそこにいるということが、なによりも
大前提。
「ある」「在る」ものを肯定する、受け止める、そういう受容こそが、出発だからです。

Vol.4 小津映画の魅力

 私たちはこの三月に大きな地震に見舞われました。原発の事故を含めて、厳しい現実が
今もなお続いています。こうした中にあって小津さんの静かな映画世界は、どのように
見えるでしょうか。そこから私たちはなにを力とするでしょうか。

Vol.5 映像教育の出発点

 「ノルシユティンの全作品は日本ではすでに上映のための版権が切れている。
 ロシア語の翻訳家、児島宏子さんがノルシュテイン監督と著作権保有者の
サユーズムリトフィルム所長から、直接、この邑の映画会のために許諾のサインを
頂いて下さり、上映が可能になった。素晴らしいことである。だって、この日、
ここ以外では、もうフィルムによる上映は見られないのだから。
 ノルシュティンの作品は私の『眠る男』とともに群馬での映像教育を進めていく
ための、大事なテキストだった。あらためてその意義を考えてみたい。」

Vol.6 見ようとする意志

 意志、と書くと、子どもよりも大人の方がよほど強いと考えがちですが、
「見ること」については必ずしもそうは言えないのではないか。子どもの方が
ものごとを丸ごとつかまえようとする意志は、強いのではないか。
映画で「見ること」はどう果たされているのか。

Vol.7 映画会に熱いエールを

 前作の「埋もれ木」が九年前。この「邑の映画会」は今年で七回目。
私はやっと新作を撮り始めました。画家の藤田嗣治を題材とした日仏合作映画
「FOUJITA」です。
年内は撮影で、映画会には参加できません。いろいろな思いを持ちながら、
映画会へ熱いエールを送ります。

Vol.8 自分の夢と仲良くしよう

 自分の夢と仲良くしよう―これは映画「埋もれ木」のキャッチコピーです。
 思い描くことを手放さないように、ということでもあるでしょうか。映画は、
見えるものを撮っていますが、夢とか祈りとか、そういう見えないものを通して、
私たちがもう一度結び合うために必要とされているもの、と考えたいです。

Vol.9 映画は祈り

 歩いているとき、目は、ぶつからないように、転ばないようにと、身の安全を
確かめて、ものを見ている。目は、私たちの行動とともにある。しかし映画を
見ている私たちは、行動していない。ただ見ているだけだ。静物画で描かれた
リンゴが食べられないのといっしょで、自分では食べられない映画の中のリンゴを
見ている。その時の目は、現実の有用性から離れている。自由になっている。
では離れて、なにを見ているのか。目が祈っている、映画を見ていて、そう思う
ときはありませんか。

Vol.10 語らないことの豊かさ、語れないことの深さ

 今回、私の話は「ミツバチのささやき」をみんなで見た後に、とさせてもらいました。
この映画祭の十回にわたる収穫と合わせて、ビクトル・エリセ監督の映画世界を、
質疑応答を含めて縦横に話し合いたいと思います。

Vol.11 第二期に入った「邑の映画会」

 「眠る男」のあと、群馬では「映像教育」なるものが模索されました。学校で
映画や映像を学ぶことはありませんでしたから、子どもたちは無防備なままに
商業主義にさらされたままでした。何とかしようと動き始めたのですが、公教育
の場でこの課題はなかなか認知されず、立ち消えになってしまいました。
それを引き継いだのがこの「邑の映画会」です。邑楽町に新しいホールが出来た
ことによって、これまでの子供たちの運営による体育館上映に一区切りがつき
ました。しかし、映画を取り巻く環境は以前に増して悪化しています。二期目に
入った十一回目に、あらためて考えなくてはならないことはたくさんあります。

Vol.12 アニメーションと実写

 「レッドタートル」と「キューポラのある町」を比較してみると、
それぞれのジャンルが得意とすること、不得手とすることが、歴然と分かる。
一つには「社会性の映り方」だろう。
どちらがいい、悪いと、簡単に切り分けられるものでもなさそうだ。
映画的な時間がどちらにどう立ち現れてくるのか、を考えてみたい。